2020-03-22

忠尤無悲 No.25

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No. 25

私はクソ犬の意図を察してすかさず飛びのき、懸垂のような格好になりながら手近な木の枝にぶらさがった。
私の足があった位置に犬が飛びついた。そして、空振りに怒るように頭を振っている。

はうはう、ウルルルル。

危なかった。
奴の耳の良さをなめていた。衣擦れにすら気づかれた。
後6歩だったのに。まずい。これはまずい。
こうなるともう一つの問題、オハアムを成立させるための唱和が最大のネック。
つまり、“距離は詰まった“が、「今こそ話そうもげた薬指」というセンテンスの唱和を完徹する時間がない。
どんなに早口だとしても、適切な音階を守りながらの発音で2秒半。
それがこの場にあっては無限のように長い時間に感じる。
奴は目が見えない分、三次元的な位置把握には苦労しているようで、樹上の私の正確な位置は追えていない。
だが、声を出せば一発だろう。手元にある何かを投げて気を引いたとして、「今こそ話そ」分くらいの時間しか稼げる気がしない。

そこまで考えたとき、私は指や二の腕に痒痛と熱を感じ始めていた。
鍛錬不足! これ以上ぶら下がっているのは難しいと身体が悲鳴を上げている。
着地不可避。そして、音を殺して着地なんてできるわけがない。

ああ、もう!
私は覚悟を決めた。

着地と同時に犬はこちらを捕捉し、ばねのように後ろ足を縮め、溜めた力を解き放って跳躍した。
強い衝撃と上半身にかかる重さで私は転倒した。
私の黄色い血が物凄い速さで全身を駆け巡る。背中は汗でべっとりだ。
マスク越しに荒い息づかいを感じる。馬乗りになって私の首めがけて牙を突き立てようとする犬。
やられる!! その瞬間、犬が短かい声を上げながらビクンと痙攣して一瞬頭を戻した。
今しかない!!!
犬の横っ腹に垂直になる位置に私はそっと左手の五指を添えた。

「今こそ話そう!」

強い衝撃とともに口元が食い破られる。
首から上全体に走る振動。マスクのフィルターが破損して、至近距離から直接臭ってくるひどいにおい。捕食される恐怖。そいつらを必死にこらえながら――

「もげた薬指!!」

大きなかん高い炸裂音とともに顕現した鋭い衝撃波が、犬を横合いから殴り、短い悲鳴ごと岩壁に叩きつけた。
どす黒い呪液が、私の胸元や腹部にはねる。
敵の重さから解放された私は、荒い呼吸のまますぐに敵の状態を確認した。
犬の胴体は、“薬指“の4つの穴が空く一方、岩壁に叩きつけられた方は完全に破裂し、液状に攪拌されたはらわたや細かく砕けた骨片をぶちまけていた。
まだ頭はかすかに動いていたが、ほぼ引きちぎれた首から下は、もはや私に向けている側の皮で辛うじてつながっているにすぎず、花のつるの力をもってしても動かせないようだった。

なんとかなった……
と安心した矢先にもうひとつ。壁の足元、犬の下にはかなてこ。
尖った方が呪液で黒く染まり、おそらく薬指の衝撃で、奇怪な形にひしゃげたかなてこが私の目に入った。
……間違いない。見覚えがある。
認識したくなかった。それがそこにあるという意味を。
私は目線を落として、ゆっくりと、反対方向を振り返った。
少し離れたところに見覚えのある4つの足。左の肩はドウ・ラに貸している。脚に傷を負って苦しそうな彼女がこちらに鼻先を向けている。
そして――
濃緑の重瞳と目が合った。
それは、今までに見たことのない、哀しく、冷たい。
そんな目だった。

 
 
忠尤無悲 終
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