2019-12-31

今後、中枢に常に置くべき制作理念・スタンス

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ありていに言えば、「マスを狙うのかニッチを狙うのか」と「誰に向けて作るのか」の二軸の話で、
結論から言えば、ニッチを狙って金や名声を求めず、孤独な時間がどうしても必要な人に向けて作りたいと思います。

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『なぜニッチ?』

もうこれは自明の理で、マスはみんなが狙うから、当然大資本・複数人の天才と同じ土俵でやりあうことになるのでなぶり殺しにされるのがオチです。
また、規模をでかくしていくと、人員のおまんまのために短期的に金銭や評判を狙いに行かないといけなくなるのですが、そうするとどうしても尖ったものを作りづらくなり、どうせ誰かがいずれやるものにしかならないからです。

自分はマイノリティ側だという自覚はありますが、その自己憐憫を軸に過激な主張をしたいわけでもなく、
単に自分用の面白いものを作って、その余剰物を誰かが勝手にもっていけばいいやくらいの気持ちです。
色々あった結果、活動をワークやビジネスではなく、ライフワーク化したいと思いました。

この辺りはKenshiのクリス・ハント氏が非常に分かりやすい例でしょう。
氏のスタンスには憧れます。それに示唆的でもあります。
もちろん、ティンフィスト殺害RTAをやるぐらいKenshiは好きです。
それと、カート・ヴォネガットや井上ひさしにも大分刺激を受けました。
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『コミュニティからの逃避願望』

現在はコンテンツそのものよりも、コンテンツに付随するコミュニティの価値の方が高い時代であって、多くの人が言語化しないまでも直感的にそれを理解しています。
そのため、ユーザーが得る利益の多くは、「もの」自体よりも「もの」を触媒に形成されるコミュニティにおける一体感とか、快適性とか承認欲求の充足などから付随的・連鎖的に発生する傾向がますます強くなっているようです。

例えば、インスタもTwitterもたいていの場合、投稿のテーマ自体は触媒にすぎません。投稿者が欲しいのは投稿内容そのものへの共感ではなく自分に対するRTやいいねです。
また、ゲーム実況者がゲーム制作側以上に得るものが大きいのも、そのコミュニティの主軸が何なのかを考えれば、極めて妥当な結果と言えます。

結果、コンテンツ提供者が大きな利益や声望を得ようとする場合、このコミュニティへの働きかけや、コミュニティが活発化する仕掛けづくりがほぼ必須になってきました。
そのため、昨今はコミュニティマーケティングがにわかに注目を集めているようですね。
実際におじさんのリアル仕事では、従業員やお客さんを含めた企業コミュニティへのケアや働きかけが業務のかなりの部分を占めています。
特にコミュニティへ参加することによる連帯意識とか特権意識を刺激する仕組みづくりはとても大事です。
そして、こういったコミュニティ管理は実質的に感情労働であり、管理職にはコミュニティメンバーの感情を計算に入れた振る舞いが常に求められ続けます。
もし就活生でコミュ力うんぬんに強い不満をお持ちの方は、陽キャとか人付き合いというより、企業コミュニティの快適性向上やコミュニティに所属している人への配慮などのコミュニティコントロールの上手い下手が、割と企業収益に直結するような時代になってるからだと考えて下されば色々捗るんじゃないでしょうか。

こういったことから、コミュニティの性質に対する理解の深浅はあれど、企業は積極的にコミュニティが形成されるように仕掛けを作るようになりました。
昨今のSNSの発達は、この動きを大きく加速し容易にさせています。
そんなコミュニティに、私たちは日常的に強く誘引されています。
なぜなら、コミュニティ自体や、コミュニティに積極参加する人たちはどうもみんな寂しがり屋らしく、ゾンビものよろしく強制的に「つながり」を結ばせようとあっちから寄ってくるからです。
また、企業もその辺を分かっているので、「どんどんつながれ」と煽りを入れます。
おじさんは「絆」とか「つながり」という言葉にゲンナリしているのですが、そんな自分勝手は許されません。フーコーが言うところの理性と狂気です。
そして、コミュニティに組み込まれたが最後、そのコミュニティ内のヒエラルキー上でのマウント合戦に強制参加させられます。
ソシャゲの爆死自慢も裏を返せばある種のマウント行為ですし、ランキングなんかはその最たるものでしょう。
そういったマウント合戦は、短期的にはコミュニティを活性化させ、運営者に利益をもたらしますが、長期的には参加者を疲弊させ、心を荒ませます。

ひとつ端的な例を出しましょうか。
おじさんの友人に、日本史好きの男がいます。
この男は基本的にいいやつで一緒に飲みにもいくし話も面白いのですが、こいつとだけは日本史の話を絶対したくはありません。
というのも、こいつは根っからの実証主義者で、司馬遼太郎とか磯〇道史氏のようなアマチュア向けの歴史伝達者がよく行う脚色と簡略化を異常に嫌っています。
そのため、日本史の話題になると基本的に誰かの歴史認識の間違いを指弾して、ボロカスに貶める展開ばかりになるのです。
だったら、自分で専門研究をして、歴史で飯が食えるようになればいいにもかかわらずそういう努力はしない。
そこまでいくともう歴史の楽しさを誰かに伝えたい・共有したいとかっていうのよりも、歴史知識を使って自分よりも無知な誰かを殴りつけたいだけでは? と感じてしまいます。
俺の方が○○が好きなのにあいつの方が評価されている! むかつく! というやつです。

で、問題なのは、コミュニティというのはこういう他者への優位性でもって自己承認欲求を満たしたいという層を常に一定数かかえてしまいがちということで、しかも面倒なのはこの層の多くが寂しがりであり、頼んでもいないの向こうから寄ってきて、よくてヒット&アウェイ、変に撃退なんぞしてしまおうものなら、優位性を崩されて憤った相手に粘着を受けるということです。
もちろん、いい人もいっぱいいるのですが、いい人たちの快適性を高く保つためには、こういう層への対処が必要なので、管理者サイドから見た場合、このコストがとてつもなく莫大でいばらの道です。
次から次へと別の人が問題を持ってきてその対処に追われていきます。
リアルでは感情労働でも生活のために我慢できます。では無償の場合は?
昔はコミュニティの負の側面を甘く見ていましたし、コントロールできるものだとタカをくくっていた結果、何度かひどい目に遭いました。

で、この問題はネットに限らない。
わたしの周りにも、あなたの周りにもこういう状況がすでに出来上がっているわけです。
正直、逃げたくありません?
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『コミュニティから逃避したくない?』

いずれにせよ、コミュニティに所属したが最後、なんらかの役割や振る舞いを期待されます。
コミュニティ内では基本的に常に他者の目と比較から逃れることができないので疲れます。
あるいは、一時的な悔しさや虚栄心を満たすために無理をして疲弊していきます。
感情労働がリアルとネットで地続きになっています。

娯楽の世界もそうです。
他者とのつながりを強制されるような仕掛け――オンラインを前提とした作り、SNSで自己主張するための作り、そういった潮流自体は否定しませんが、個人的な好みとは外れます。
別に常に周りに不満があるわけじゃないし、付き合いが嫌いなわけでもない。
だけど、たまには一人になりたい。
そんなことを腹の中に抱えている人は、発散する場がどんどん減っています。
ゲームの中でくらい、一人で完結できるような仕組みの上で楽しめる時間が欲しい。
世の中の潮流がそれとは逆の方向に行くなら、なおのこと。
自分を含めたそんな人間の逃避先を用意したいのです。